ポンキエッリってどんな作曲家?
わたしが入っているグループ、Familiarの1st リサイタルがいよいよ1ヶ月後に迫ってきました!!
コンサートでは何曲かを演奏するのですが、その中でも今回のメイン曲となるのが、アミルカレ・ポンキエッリ作曲の「出会い」という曲。
クラリネット2本とピアノで演奏するこの曲は、とても華やかで、超絶技巧が盛り込まれていて、美しく歌う部分もある素敵な曲です♪
今回は、そんな素敵な曲を作曲したアミルカレ・ポンキエッリについて書いてみようと思います。
ポンキエッリ誕生の地
ポンキエッリは1834年8月31日、イタリアの北部にあるパデルノ・ファソラーノという町に生まれました。
驚くことが、ここで生まれたポンキエッリにあやかって、町の名前が変わったのです!!
このパデルノ・ファソラーノという町の名前は1950年に変更され、現在はパデルノ・ポンキエッリという名前になりました。
つまり彼は、町の名前まで変えてしまうくらいすごい人物なのです。
そのころのイタリア
ポンキエッリが生まれたころ、彼が生まれた町はオーストリアに支配されていました。
北イタリアはオーストリア、中部イタリアはローマ教皇、南イタリアのナポリ王国とシチリア王国はブルボン家が支配をしていて分裂状態だったイタリアを統一する運動が起こっていたのがこのころでした。
ミラノ音楽院へ入学
ポンキエッリは教会音楽家の家庭に生まれ、9歳で奨学金をもらうとミラノ音楽院に入学します。
ミラノ音楽院は、プッチーニやベネデッティ、ベリオなどという著名な音楽家たちをたくさん輩出した学校です。
そしてまだ10歳にもなる前に、彼は最初の交響曲を作曲してしまうのでした。
ミラノ音楽院在学中には、彼の生まれ故郷の近くにあるクレモナのサン・イラリオ聖堂のオルガニスト、楽長になりました。
音楽院卒業後
ミラノ音楽院を卒業後は、選抜試験に通ってミラノ音楽院教授職に就くことになったのですが、その後追い出されてしまうことに。
小さな都市でつまらぬ仕事をして何とか食いつないでいくしかありませんでした。
そして1862年、ポンキエッリはピアチェンツァの国家警備隊音楽監督に就任し、1864年からはクレモナの市民バンドのバンドリーダーをつとめたりしながらキャリアを積んでいきます。
オペラ作曲家としてデビュー
ポンキエッリは1856年に、最初のオペラ『婚約者』を作曲しました。
これがクレモナのコンコルディア劇場で初演され、ポンキエッリはめでたくデビュー☆
この時はあまり成功とは言えませんでしたが、1872年に改版するとこれが大成功!!
すると、なんとイタリアオペラ界の最高峰とされるスカラ座から依頼がきて、オペラを次々に作曲することに!
特に1876年に作曲されたオペラ『ラ・ジョコンダ』は、現在も大人気のオペラで彼の最も有名なオペラとなりました。
中でも第3幕のバレエ音楽『時の踊り』は、それだけ抜き出してコンサートで演奏されることも多いです。
創意が落ち込む
『ラ・ジョコンダ』で成功した後は、ポンキエッリの創意が落ちてしまい、大きな成功作品はありませんでした。
『ラ・ジョコンダ』が素晴らしい作品すぎたのでしょうか。
でも、彼の作品は素敵だったので、もう少し書いて欲しかったなあなんて思いも。
1881年にはベルガモ大聖堂の楽長職に任命され、1883年からは母校ミラノ音楽院で作曲家教授を務め、プッチーニやマスカーニという、のちに有名になる作曲家たちを育て上げたのでした。
ヴェルディの言葉
ポンキエッリは、1886年急性肺炎のためミラノにて亡くなります。
ポンキエッリの訃報に、イタリアを代表する音楽家ヴェルディは、
「可哀想なポンキエッリ、あんなにいい奴だったのに、あんなに立派な音楽家だったのに。」
と言ったそうです。
それは、生前のポンキエッリは大人気の作曲家で、オーケストラを拡大したり、より複雑なオーケストレーションを取り入れた偉大な音楽家だったのにも関わらず、現在よく演奏される彼の曲は『ラ・ジョコンダ』のみだから!
あまり名前を聞かない作曲家となってしまっています。
ポンキエッリの曲をわたしたちが演奏します!
そんな彼の曲の中で、2020年2月12日(水)にわたしたちFamiliarが演奏するのがポンキエッリ作曲の「出会い」という曲。
これはポンキエッリがクレモナの吹奏楽団の指揮者を勤めていたころの作品で、元々は2本のクラリネットと吹奏楽の為に書かれました。
今回は、後に吹奏楽伴奏がピアノ伴奏になって出版されたものを演奏します。
聴きごたえ抜群の曲なので、是非この機会に聴いてみてください(o^^o)
ポンキエッリが作った素敵な曲は『ラ・ジョコンダ』だけではないことがわかるはずです!!