ショパンのパリ時代に思いをはせて~ショパンが住んだ家をたどる
ポーランド人でありながら、パリに住んでいた期間が長いという作曲家、フレデリック・ショパン。
彼が移り住んだ住んだ家には、今も彼の名前が入ったプレートが掲げられているところが多いです。
そんなショパンの足跡をたどってみました!
27 rue Boulevard Poissonniere 5階
1831年9月~1832年6月
ショパンがパリにきて最初に住んだ家です。
1831年9月の暮れにパリに到着し、結局これ以降ポーランドに戻ることはありませんでした。
彼は友人への手紙でこの家について、「素敵なマホガニーの家具付きの素敵な部屋で、モンマルトルの丘からパンテオンまでのパリで一番美しい景色が見渡せる。」と書いたそうです。
ヨーロッパ中からたくさんの弟子たちが集まり、ピアノを教えて収入を得ていました。
彼は自宅で小さなコンサートをするのが好きだったので、パリで公開演奏会を行うことはほとんどなく、毎年一回300席ほどのサル・プレイエルでコンサートをするのみでした。
4 cite Bergere 2階
1832年秋~1833年6月半ば
向かいにはハイネが住んでいて、ショパンとの交流もあったようです。
今はホテルになっています。
1832年2月の演奏会では、誰もがショパンを賞賛し、1833年3月23日には、ショパン、リスト、ヒラーで、バッハの「3つの鍵盤楽器のための協奏曲」を演奏しました。
5 Rue de la Chaussee d’Antin
1833年6月~1836年9月
今はもう何もありませんが、オペラ座のすぐ近く。
エチュードop.10はここで完成され、リストに献呈されました。
ロスチャイルド家での演奏が好評だったため、レッスンの依頼が殺到し、楽譜もたくさん出版していました。
この家には、リスト、ベルリオーズ、メンデルスゾーンがよく集まっていたそうです。
そして1835年8月1日にはフランスの旅券が発行され、ショパンはフランス市民となりました。
その年、チェコのカルロヴィ・ヴァリで両親と再会し、その帰り道、ドレスデンでヴォジンスキ伯爵一家の娘16歳のマリアに恋をしました。
調べていると、1778年この住所にはホテルがあり、モーツァルトがここに3ヵ月間泊まっていたようです。
そして、同じ頃の作曲家Gretryはこの隣の4番で亡くなったそうで、この辺りにはかつてたくさんの音楽家が暮らしていたのですね。
38 Rue de la Chaussee d’Antin
1836年9月~1839年9月
そして、同じ通りに引っ越します。ここももう残っていませんが、サントトリニテ教会が見える通りです。
1836年の9月、マリアにプロポーズしますが、マリアは若く、ショパンの健康状態が悪いことにより2人の結婚は実現しませんでした。
ドレスデンを去る朝にマリアのことを想い、『ワルツ第9番 イ長調 (別れのワルツ)』を書きます。
そしてパリに戻った後すぐ作品25『練習曲集』第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」と述べ、ポーランドロマン派の詩に曲をつけた7つの歌曲をマリアに贈りました。
同じ年、リストの愛人マリー・ダグー伯爵夫人のホームパーティーでジョルジュ・サンドに出会います。
最初ショパンは彼女に嫌悪感を抱いていましたが、サンドは友人に、ショパンについて32ページにもなる手紙を書き、1838年の夏には秘密の関係ができあがります。
そしてショパンとサンドと2人の子供は、ショパンの健康を良くするためマヨルカ島へ行くことになりました。
5 rue Tronchet
1839年10月~1841年11月
マドレーヌ寺院のすぐそばにありました。
ここも、残念ながらショパンに関するものは見つけられませんでした。
20 rue Jean-Baptiste Pigalle
1839年~1842年9月(サンドの家)
マヨルカ島からバルセロナ、マルセイユ、サンドの別荘があるノアンを渡り、ショパンとサンドと2人の子供はパリへ帰ってきました。
Tronchetに住んでいたショパンは、Pigalleのサンドの家をたびたび訪れほとんどの時間をそこで過ごすようになると、Tronchetの家を売り払いサンドの家で一緒に住むことになりました。
80 rue Taitbout
1842年9月~1849年6月
1942年に引越し、サンドと隣同士の建物で暮らします。
夏の間は、1846年までノアンで過ごしていました。
ショパンの病が悪くなるにつれ、サンドは看護師のようになっていきました。
しかし、1845年ごろからショパンとサンドの関係は悪くなっていき、1847年、10年続いた二人の関係は終わりました。
その後、ヴィルトーゾとしての人気は落ちていき、弟子は減り、1848年にパリで最後の演奏会を開きました。
その年の4月は、ロンドンでいくつかのコンサートをして喝采をあびます。
しかし11月16日、ロンドンで最後の公開演奏会を行うと、パリへ戻ることに。
彼は病に苦しむ生活を送りますが、それでも友人たちに会うことはやめず作曲への熱意は冷めていませんでした。
74 rue de Chaillot
1849年6月~9月22日
シャイヨーの現在トロカデロ広場になっている丘の上に住みました。もう今はありません。
パリではコレラが流行していたので、少し落ち着いたこの場所に来たのです。
ここにポーランドから姉のルドヴィカがお見舞いにきて、2人は5年ぶりに再会しました。
12 place Vendôme
1849年9月~10月17日
ショパンは家族と一緒にいたいという思いから、1849年6月、姉のルドヴィカにパリに来てもらう約束を取り付け、9月からこの家に住み始めます。
ここには以前はロシア大使館が入居しており、7部屋もあった2階はショパンには払える家賃ではありませんでしたが、ジェーン・スターリングが彼のために肩代わりしました。
10月15日には病状が深刻になり、ポトッカ夫人が見舞いに来て歌い、ショパンはソナタを弾くよう頼んだりしました。
ショパンは、ジョルジュ・サンドが「私の腕の中で息を引き取らせてあげる」と約束したことに不平をもらしたりもしたそうです。
そして17日に亡くなります。
マドレーヌ寺院
葬儀はマドレーヌ寺院で行われ、モーツァルトのレクイエムが歌われました。
その時オルガンを弾いたのはフランツ・リストでした。
ランベール館
ランベール館は17世紀の建物で、ポーランドを亡命したドン・チャルトリスキ家の住まいでした。
パリに住むポーランド亡命者たちはここに集まり活動していました。
ショパンもそのうちの1人で、ここに毎週通い人前で演奏を披露していました。
そして、サンドと上手くいかず孤独になったときにも、ここでポーランド亡命者たちと交わって癒されていたようです。
モンソー公園
パリ8区にあるモンソー公園には、ショパンと天使の像があります。
子供たちが賑やかに遊んでいる姿を静かに見守ってくれているようでした。
まとめ
パリにはショパンゆかりの場所がいっぱい!
そんな場所をたどりながら、ショパンが実際に住んでいたことを感じてみるのも素敵ですよね(*^_^*)