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シューマンが身を投げたライン川を眺める。ドュッセルドルフのシューマンが住んだ家へ

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ドイツロマン派の作曲家、ロベルト・シューマン。
 
彼は素敵な作品を数多く生み出しますが、最後は精神の病に侵されてしまいます。
 
 
そんなシューマンが住んでいた、デュッセルドルフを訪れた時のことを。

 
 
 
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ここがシューマン夫妻が住んでいた家です。
 
この家に住んでいる間に、当時20歳だったブラームスが訪ねてきてシューマンを興奮させるという良いことがあった反面、シューマンが病により投身自殺を図るという悲しいこともありました。
 
 
 
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シューマンと妻のクララはここに1852年9月1日から1854年3月4日まで住んでいました。
 
 
 
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1850年9月、デュッセルドルフの音楽監督としてこの街にやってきたシューマン夫妻は歓迎を受け、最初のコンサートで成功を収めます。
 
 
創作力も旺盛で、『チェロ協奏曲』『ライン交響曲』などの名曲を作曲しました。
 
作曲のスピードもものすごく速くて、『チェロ協奏曲』、『交響曲第3番』、『ヴァイオリンソナタ第1番、第2番』、『ピアノ三重奏曲第3番』をどれも数日間で、『ヘルマンとドロテア』序曲はなんとわずか数時間で作曲してしまいます。
 
 
 
しかし最初のシーズンが終わると、地元の新聞がシューマンの指導力を批判する記事を掲載し、シューマンはしばしば指揮を落としたり、曲が終わったのに指揮を続けるなど、おかしな場面が多くなっていきます。
 
それでも1853年5月に開催された「低ライン音楽祭」では、改訂されたシューマンの交響曲第4番が初演され成功を収めます。
 
 
そして 5月17日には名ヴァイオリニストのヨアヒムと共演し、二人の交流から2曲のヴァイオリンソナタ、『ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲』、『ヴァイオリン協奏曲』が生まれました。
 
 
 
1853年9月30日、20歳のブラームスがヨアヒムの紹介でシューマン夫妻を訪れます
ブラームスの作品を聴いたシューマンは深く感動し、『新音楽時報』に『新しき道』と題するエッセイを書きました。
 
しかし1854年2月10日の夜にシューマンは激しい耳の痛みに襲われます。
4日後、レストランで手にしていた新聞を置いて「とてもこれ以上読んでいられない。A音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と言ったそうです。
 
 
そして17日午後2時、精神障害から錯乱状態となったシューマンは、雨の中、スリッパのまま家を飛び出し、ライン川に投身自殺を図りました。
 
 
 
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これがそのライン川。
 
彼が飛び降りたシフスブリュッケは、1895年に取り外されたので正確な場所はわかりませんが、家からすぐのところにライン川が流れています。
 
こんなところに飛び込んで助かったなんて、、と思うような大きな川でした。
 
 
 
3月3日にブラームスが駆け付け、精神的にも肉体的にも疲れてしまっていたクララを、物心両面で助けます。
 
そして3月4日、シューマンはボン近郊の精神病院に移送され、クララと離れ離れになってしまうのです。

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この記事を書いた人

マソン優貴葉のアバター マソン優貴葉 クラリネット奏者

名古屋音楽大学を卒業後、フランスのムードン音楽院、ヴェルサイユ音楽院の最高課程を修了。
4年間のフランス留学を終え2019年に帰国し、現在は愛知県名古屋市を中心に演奏活動や、個人レッスン、音楽教室でのレッスンなど幅広く行っている。

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