『カルメン』が誕生したパリで、ビゼーゆかりの地をめぐる
『カルメン』や『アルルの女』の作曲者として知られるジョルジュ・ビゼー。
彼が住んでいたのはほとんどが、当時の芸術家やインテリが住んだパリの「ヌーヴェル・アテネ」地区の中でした。
そんなビゼーがパリで過ごした場所を、彼の生涯とともにめぐってみます。
ビゼーの生家
住所→26 rue de la Tour d`Auvergne
オペラとモンマルトルのにぎやかな場所に挟まれたちょうど間あたり。
ビゼーは1838年、声楽教師の父親とピアニストの母親の間にここで生まれました。
Notre-Dame-de-Lrette教会
ビゼーが洗礼を受けた教会です。
最初はアレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼー(Alexandre-César-Léopold Bizet)とつけられていましたが、洗礼時にジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet)に改名されました。
幼い頃に住んだ家があった場所
住所→Rue P.Fontaine
そして、ビゼー家はこの通りに引っ越します。
ビゼーに関するものは何も見つけられませんでした。
ビゼーは幼いころから音楽に親しんでいて、記憶力が抜群だったそうです。
パリ音楽院入学~結婚するまでに住んでいた家のあった場所
住所→18 rue Victor Masse
さらに引っ越します。
こちらも何もなくて残念、、
ビゼーは9歳でパリ音楽院に入学し、 ピアノの腕をリストやベルリオーズに賞賛されました。
初めての交響曲を17歳のときに作曲し、18歳でオッフェンバック主催のコンクールで大賞をとります。そして19歳でローマ大賞を得て、奨学生として1858年1月からローマに滞在し幸せな時間を過ごします。
しかし1960年9月、母親の病気を知ってパリに戻り、その翌年に母親は亡くなってしまいます。
1863年に初のオペラ『真珠採り』、1866年『美しきパースの娘』が上演されました。
1865年セレスト・ヴェナールと出会い、彼女の家はビゼーの別荘の隣であったので、1866年から1867年の初めにかけて彼女の家で作曲しました。
高級娼婦兼歌手としてセレスト・モガドールの名前で有名だった彼女はカルメンのモデルだと考えられています。
そして29歳のとき18歳のジュヌヴィエーヴ・アレヴィに結婚を申し込み、最初はアレヴィ家から断られてしまいますが2年後ようやく認められ、1869年2人は9区の区役所で結婚式を挙げます。
結婚後の家
住所→22 rue de Douai(Duperré)
結婚後はここに住みます。
周りにカフェなどがたくさんあり、にぎわっているところにありました。
1872年二人の間にジャックが生まれますが、二人の関係は次第に悪くなり1874年には3ヶ月間別居しました。
1872年ドーデの戯曲「アルルの女」の劇音楽を依頼され作曲しますが、評判は良くなく。
一方で、管弦楽用に編成し直した交響組曲「アルルの女」(第1組曲)の方では大成功を収めます。
オペラ・コミック座(Opéra Comique)
オペラ・コミックに依頼されて1873年から『カルメン』を書き、1875年3月にここで初演されます。
しかし、保守的な劇場の観衆にはスキャンダラスに映り、最終幕では拍手もなかったそうです。
亡くなった家
住所→5 rue Y.Tourguéniev 78380 Bougival
失意のビゼーはブージヴァルの家に静養に行きます。
そして1875年6月3日、敗血症のため36歳でこの家で亡くなります。
『カルメン』初演の約3ヵ月後でした。
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サン・トリニテ教会(Saint Trinite)
葬儀はSaint Trinite教会で行われました。
大通りの前に聳え立つ、素敵な教会でした。
ビゼーが生きている間はなかなか認められなかった『カルメン』も、彼が亡くなって数ヵ月後にウィーンで初演されると、ワーグナーやブラームスが熱狂したのだそうです。
そして今では世界中で愛され、演奏される作品となりました。
まとめ
こんな感じで、ビゼーはパリに生まれパリで育ったパリジャンだったのです。
ビゼーの作品は現在世界中で愛される名作となっていますが、それは彼が亡くなった後のことで、彼が活動していたしていたころは、あの『カルメン』でさえも失敗に終わっていたことは驚きですよね。
↓そんな『カルメン』をパリのバスティーユ劇場で観てきました♪
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