吹奏楽の名作曲家!アルフレッド・リードについてもっと知ろう
吹奏楽をやっている人ならきっと、アルフレッド・リードという名前を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
「アルメニアン・ダンス」や「エル・カミーノ・レアル」、「春の猟犬」など、中学高校の吹奏楽部や一般バンドでもよく演奏され、彼の素敵な吹奏楽曲に心打たれた人も多いのでは?
ということで今回は、そんな偉大な作曲家アルフレッド・リードについて書いてみたいと思います!
子供時代
アルフレッド・リードは1921年、アメリカのニューヨークで生まれました。
この1921年、アメリカではワシントン会議が行われていて、このころのアメリカは第一次世界大戦が終わり、農業以外の産業がどんどん発展していった時代でした。
リードはニューヨークで生まれたアメリカ人ですが両親はオーストリア人。
彼は、英語とドイツ語の両方を話せるバイリンガルに育てられました。
リードの父はレストランで歌うテノールで、家でも歌ったりクラシックのレコードを毎日かけていたので、リードもそれを口ずさむことが多かったそうです。

リードはお父さんの影響を強く受けて音楽家になったのですね!
トランペットとの出会い、そして作曲へ
10歳の時、学校に楽器メーカーが楽器の実演に訪れるとリードはそこに現れたコルネットがお気に入りに!
父にねだって、音楽教室でコルネットを吹けることになります。
その後トランペットを買ってもらうと、プロのレッスンを受けてメキメキと腕を上げていきます。
13歳にはもう、バンド演奏でギャラをもらえるレベルまで到達してしまいまいました。
そして15歳の時に初めての作曲!
トランペットより作曲の方が楽しいことに気づくと、作曲家を目指すことになりました。
トランペットを演奏して生活費を稼ぎながら、ハンガリー出身の作曲家ポール・ヤーティンに作曲を学びました。
結婚
1940年、リードの父親が働いていたレストランのオーナーの娘マージョリー・ベス・ディリー(Marjorie Beth Deley)に出会うと、その翌年には結婚!
リードが20歳、マージョリーは21歳でした。
軍隊でバンド曲と出会う
1939年に第2次世界大戦が勃発し、1941年にはアメリカも参戦しました。
リードも21歳の時に軍隊に入ることになりました。
彼は第529陸軍航空隊バンドに配属され、ここで副指揮者とラジオディレクターを務めます。

戦うことだけが軍隊のやることではないんですね!
アルフレッドはこの間に150曲を越えるバンドのためのオリジナル曲と編曲作品を書き、これがリードがバンド曲(吹奏楽曲)を書くきっかけとなりました。
ラジオ番組での作曲
軍を辞めると、1946年ジュリアード音楽院へ入学。
ここで作曲を学びます。
そして1948年にはNBCの人気ラジオ番組を担当する作曲家の助手としてジュリアード音楽院に在籍しながらラジオ番組のために次々に曲を書きました。
その後もリードは、さまざまな音楽番組の制作に関わっていきます。
彼はベイラー大学シンフォニーオーケストラの指揮者に就任したり、マイアミ大学音楽学校の教授となるなど教育の面にも力を入れつつ、世界中のバンドと共演したりと自らの音楽活動も積極的に行なっていきます。
日本でリードが有名になったきっかけは?
日本ではリードの作品が大人気ですよね?
そのきっかけとなったのは、1970年の全日本吹奏楽コンクール高校以上の部門の課題曲に『音楽祭のプレリュード』選ばれたこと!
これによってリードの名前が日本中に広まったのです。
そして1981年、リードは東京佼成ウインドオーケストラに招かれて、奥さんと共に初めて日本にやってきました。
この時に《音楽祭のプレリュード》《アルメニアン・ダンス(パート1)》などのCD録音を行い、東京佼成ウインドオーケストラの定期演奏会で客演指揮者として出演しました。
定期演奏会の会場は立ち見席まで満員のものすごい人!

300人近くが当日券を狙ってきたのに、会場に入れなかったんだそうです。
その後もリードは日本に何度も来日しています。
1985年以降は客演指揮やクリニックの指導者として毎年日本を訪れており、日本中の人たちを感動させました。
演奏し続けられるリードの曲
2005年に亡くなった後も、彼の曲は世界中で演奏され続けています。
彼の曲は、演奏していても聴いていてもなんだかわくわくするし、心温まる素敵なフレーズがたくさん出てきます。
技術的にも難しすぎないので、楽器を始めて間もない学生にも演奏できるのがまた良いですよね!
彼の曲がこれからもずっと、色々なところで演奏され続けてほしいです(o^―^o)